208 研究系及び研究施設の現状
電子計算機室
岡 崎 進(教授)
A -1)専門領域:計算化学、理論化学、計算機シミュレーション
A -2)研究課題:
a) 溶液中における溶質分子振動量子動力学の計算機シミュレーション b) 量子液体とその中での溶媒和に関する理論的研究
c) 生体膜とそれを横切る物質透過の分子動力学シミュレーション d) タンパク質の機械的一分子操作の計算機シミュレーション e) 水溶液中における溶質分子の平均力とメモリー解析 f) 超臨界流体の構造と動力学
A -3)研究活動の概略と主な成果
a) 分子振動緩和など,溶液中における溶質の状態間遷移を含む量子動力学を取り扱うことのできる計算機シミュレー ション手法の開発を進めている。これまですでに,調和振動子浴近似に従った経路積分影響汎関数理論に基づいた 方法論や,注目している溶質の量子系に対しては時間依存のシュレディンガー方程式を解きながらも溶媒の自由度 に対しては古典的なニュートンの運動方程式を仮定する量子−古典混合系近似に従った方法論を展開してきてい るが,これらにより,溶液中における量子系の非断熱な時間発展を一定の近似の下で解析することが可能となった。 特に前者の方法では個々の多フォノン過程を分割して定量的に表すことができ,これに基づいてエネルギーの溶媒 自由度への散逸経路や溶媒の量子効果などを明らかにしてきた。また後者の方法では個々の溶媒分子の運動と溶質 量子系とのカップリングを時間に沿って観察することができ,液体に特徴的な緩和機構について解析してきている。 b) 常流動ヘリウムや超流動ヘリウムなど量子液体の構造と動力学,そしてこれら量子液体中に溶質を導入した際の溶
媒和構造や動力学について,方法論の開発を含めて研究を進めてきている。前者については交換を考慮しない経路 積分モンテカルロ法や積分方程式論,そして経路積分セントロイド分子動力学法などを用いて解析を進め,ヘリウ ムの動的性質や溶媒和構造などを明らかにしてきている。一方,後者に対しては粒子の交換をあらわに考慮した上 で,溶液系の静的な性質の研究に適した形での経路積分ハイブリッドモンテカルロ法を提案しこれまでにすでに超 流動を実現した。また,動的な性質についても交換を精度よく取り入れた方法論について手法の実用性も考慮しな がら検討を進めてきている。
c) 水中において異方性を示し,かつ不均一系を構成する脂質二重層膜に対し,自然で安定な液晶層を良好に再現でき る分子動力学シミュレーション手法について検討し,これに基づいて膜の構造や動力学の分子論的解析を行ってき た。その中で特に,水中の膜の大きな面積ゆらぎや水−膜界面に生成される電気二重層,そして界面での異方性を 持った水の誘電率などについて明らかにし,その微視的な描像を解明してきた。一方で,生理活性物質の透過や吸収 などに関しても計算を展開し,膜を横切る低分子の透過に際しての自由エネルギープロフィールによる解析等を進 めてきた。さらには,単純なイオンチャンネルを埋め込んだ系に対しても予備的な分子動力学シミュレーションを 試みている。
研究系及び研究施設の現状 209 d)非接触型原子間力顕微鏡のカンチレバーの機構を利用して試みられつつあるタンパク質の機械的延伸実験に対応 した分子動力学シミュレーションを行っている。これにより,延伸実験で測定される力のプロフィールの分子論的 な意味を明らかに するととも に,水中で のタンパク質のコンホメーショ ン変化に際 しての自由 エネルギープロ フィールを得る。現時点ではポリペプチドのα-ヘリックスとβ-ストランド間の転移について解析を進めているが, 今後β- シートと β- ストランド間の転移,さらにはより複雑なタンパク質の高次構造の破壊などについても解析す る。そして,これらをさらに展開し,タンパク質の安定構造や準安定構造を人工的に積極的に生成させ得る機械的な 一分子操作の可能性について検討を進める。
e) ミセルや二重層膜に代表されるような水溶液中における溶質分子の集団的な自発的構造形成に対するシミュレー ション手法を確立することを目的として,溶質分子にかかる平均力やメモリーについての解析を行っている。特に 前者については,水中での自由エネルギー解析に対応し,充分な精度を得るために大規模計算を行っている。同時に, 溶質分子がとる構造の安定性が,おかれた環境にどのように依存するかについての検討も行っている。その典型的 な例として,真空中と水中,そして生体膜中などにおいてポリペプチドがとる構造の安定性の変化について計算を 進めている。
f) 超臨界流体は温度や圧力を制御することによって溶質の溶解度を可変とすることができ,物質の分離抽出のための 溶媒として注目される一方で,超臨界水など安全で効率のよい化学反応溶媒としても興味を集めている。この超臨 界流体の示す構造と動力学について大規模系に対する分子動力学シミュレーションを実施し,臨界タンパク光の発 生に対応する強い小角散乱や臨界減速などを良好に再現した上で,流体中に生成されるクラスターの構造と動力学 について詳細な検討を行ってきている。そこでは,流体系においても液滴モデルがよく成り立つことやクラスター のフラクタル性,パーコレーション等について実証的に検証してきた。特にクラスターの生成消滅の動力学につい ては,従来のイジングモデル等ではほとんど議論することのできなかったところであるが,本研究における一連の シミュレーションによりその特徴を明らかにすることができた。一方で,溶解度に大きな関係を持つ水の誘電率に ついても,常温常圧から亜臨界,超臨界状態にわたって水の分極を取り入れた分子モデルに基づいて分子論的な立 場から検討した。
B -1) 学術論文
K. MASUGATA, A. IKAI and S. OKAZAKI, “Molecular Dynamics Study of Mechanical Extension of Polyalanine by AFM Cantilever,” Appl. Surf. Sci. 188, 372–376 (2002).
B -3) 総説、著書
岡崎 進、岡本祐幸 , 化学フロンティア「生体系のコンピュータシミュレーション」(共編), 1–262 (2002).
S. OKAZAKI, “Solvation Structure in Supercritical Fluids,” in Supecritical Fluids, Y. Arai, T. Sako and Y. Takebayashi, Eds., Springer Verlag; Berlin, pp. 30–36 (2002).
B -4) 招待講演
岡崎 進, 「生体膜を横切る水の直接透過に関する計算機シミュレーションからの一考察」, 日本化学会秋季年会シンポジ ウム「生体分子科学と溶媒分子」, 豊中 , 2002年 9月 .
210 研究系及び研究施設の現状
岡崎 進, 「溶液中における溶質分子振動量子動力学の計算機シミュレーション」, 日本物理学会2002秋季大会シンポジ ウム「分子シミュレーションが開く世界」, 春日井 , 2002年 9月 .
B -6) 学会および社会的活動 学協会役員、委員
分子シミュレーション研究会幹事 (1998- ). 日本学術振興会第 139委員会委員 (2000- ).
B -7) 他大学での講義、客員
東京大学教養学部 , 「熱力学A」, 1998年 4月 -.
名古屋大学大学院人間情報学研究科 , 「コンピュータシミュレーションの基礎と応用」, 2002年 9 月 9日 -12日 .
C ) 研究活動の課題と展望
溶液のような多自由度系において,量子化された系の動力学を計算機シミュレーションの手法に基づいて解析していくため には,少なくとも現時点においては何らかの形で新たな方法論の開発が要求される。これまでに振動緩和や量子液体につ いての研究を進めてきたが,これらに対しては,方法論の確立へ向けて一層の努力を続けるとともに,すでに確立してきた手 法の精度レベルで解析可能な現象や物質系に対して具体的に計算を広げていくことも重要であると考えている。また,電子 状態緩和や電子移動反応への展開も興味深い。
一方で,超臨界流体や生体系のように,古典系ではあるが複雑であり,また巨大で時定数の長い系に対しては計算の高速 化が重要となる。これには,方法論そのものの提案として実現していく美しい方向に加えて,計算アルゴリズムの改良やさら には現実の計算機資源に対する利用効率の高度化にいたるまで様々なレベルでのステップアップが求められる。このため, 複雑な系に対する計算の実現へ向けた現実的で幅広い努力が必要であるとも考えている。